おもうこと

♪この悲しみを伝えたい〜沖縄で実感

UIゼンセン同盟 永田由美子

今回、平和集会に参加して、私の中にあった沖縄の見方が大きく変わりました。私が、初めて沖縄に行ったのは、8年前。その時は、きれいな海と、空と、南国独特の風景に感動し、ただ、「ああ楽しかった」で帰った旅でした。今回は、そのきれいな海と、空、景色は、沖縄県民の、血と、肉と、骨と、とても大きな苦しみと、深い悲しみで造られたものだと思いました。学校では、日本で唯一「本土決戦」があった場所と教えてもらっただけで「ひめゆり学徒隊という、若い命がたくさん犠牲になった」くらいの知識しかありませんでした。その後は、“それ”について考えてみようともしませんでした。ピースガイドの方に、沖縄戦での犠牲者が、兵士よりも、一般市民の数の方が多かったと聞いてびっくりしたぐらい、無知な自分が恥ずかしかったです。そして、同じ日本人なのに、助けてくれると思っていた兵士から、沖縄の言葉を禁止され、食料と避難場所(ガマ)を奪われ、辛い労働を強制され、死をも強制された日々。

 1日目の「ぴーすセミナー」での、平和への証言(語り部)宮城喜久子さんのお話しや、2日目の「ぴーす・フィールドワーク」の時の、ピースガイドの方々の切々と語る中にも絶対に忘れられない、忘れてはいけないあつい思いが伝わってきました。
 
糸数のガマに行った時、懐中電灯を持って中に入り、あまりの足元の悪さと、暗さにびっくりしました。懐中電灯などない、隣の人も見えない暗いこんな中で、労働をさせられていた“ひめゆり学徒隊”の女性たちを思い起こし、それがもし自分だったらと考えた時、とても怖くなりました。そして、ガマを出て、「ああ、暑い」と言いながら簡単に水を飲んでしまった私・・・。あのガマの中にいた人々は、この水を飲むのも命がけだったと話を聞いたばかりなのに・・・。自販機に、お金を入れれば簡単に飲める今、あのガマの中にいた人々の辛い気持ちを本当には理解できない自分が腹だたしかった。
 バスの中、ピースガイドさんが、「さとうきび畑」の歌をうたってくれました。私は、その時までこの歌は、ただの南国のさとうきびの歌としか思っていませんでした。この歌を作った森山良子さんの歌への思いと、詩のせつなさ、窓の外に見えるさとうきび畑と、ガイドさんの歌の上手さが重なって“あついもの”がこみ上げ、とても感動しました。松山に帰ってすぐにCDを買いに行きました。もう一度、歌詩を読んだ時、穏やかなメロデイーの中にあるとても切ない歌詩に、体験を語ってくれた宮城喜久子さんと、ピースガイドさんの穏やかな語りの中の、激しい思いと同じものを感じました。

 今、この時代、なんだか人と人との繋がりがとても寒々として、あつい思いはカッコ悪いと思われる世の中。クールを装う人々。自分の欲望のために、簡単に他人を傷つけ、殺してしまう世の中。お国のため、愛する家族のために、辛い労働と、餓えとに必死で耐え、生きるためだけに戦ってきた人々は、どんな思いで見ているのでしょうか。愛するがために、我が子を、親を、兄弟を、自分の手で、殺さなければならなかった人々はどんな思いで、見ているのでしょうか。

 米軍基地は、芝生が青々と茂り、広々としてとてもきれいでした。その周りには、狭い土地に窮屈に立ち並ぶ、沖縄の人々の家。戦争は終わり、平和になったこの世の中で、まだ、不条理なものと戦い続けている沖縄。

 今、この時点で私に何ができるか、また何をするべきか、見つけることができません。でも、ひとつだけ思うことは、平和集会で聞いたこと、見たことを一人でも多くの人に、話し、伝えたいということ。もし、自分が子供をもつことが出来れば、沖縄に行き同じ経験をさせたい。「さとうきび畑」の歌の最後の歌詩に、(この悲しみを伝えたい)とあります。
 私も、この悲しみを伝えたい、伝えなければいけないと強く思いました。

うまく伝わったかな?

JAM 田村 彰朗

・・・「人が人でなくなるのが戦争です。」と語り部の方は話されました。戦争当時は、たくさん敵兵を殺して御国のために働くのが、敵兵に捕まるぐらいなら自ら死を選ぶのが当然と教育されていました。戦争をなくすために具体的な方法はすぐには思いつきませんが、そのひとつは・・・

 これでうまく伝わったんやろか?いつもながら緊張してしまって考えてた通りは喋れんかったな。あとから考えるといまいち分かりにくい内容になってることが多いからな、ぼくの話は。
 わたしの所属する部署には昼礼があり、毎日順番に時事問題や日常生活での出来事を紹介しています。タイミングよく平和行動に参加した数日後にわたしの順番が回って来たので、印象に残っていたいくつかの話題の中から、ガマと呼ばれる自然の壕での集団死について話すことにしました。

 当時住民の多くがガマと呼ばれる自然の壕で避難生活をしていました。戦況はいよいよ芳しくなく、ついに米軍はガマを取り囲んでしまいます。米軍に捕まると、男性は惨殺、女性も乱暴されて殺されてしまう。そう言って日本軍は住民に恐怖心を植え付けていました。生きて捕まることは許されない。自殺用の手榴弾を配られる場合もありました。そういう背景があり、捕まる前に自ら命を絶つ、あるいは家族にさえ手をかけてしまう集団死が多く発生したそうです。まさに人が人でなくなってしまっていたということでした。

 連合の組織の中でも、平和行動に参加できる人はわずかしかいません。職場や単組に戻って、今回勉強してきたことをより多くの人に伝えること、より多くの人に平和について考えてもらえるようにすること、がわたしの仕事です。昼礼で今回の体験を紹介することでひとつ仕事をすることが出来ました。そしてもうひとつ、労働組合青年婦人部で機関紙を作成し、沖縄平和行動をその記事の一つとすることにしています。

 『二十一世紀のひめゆり』という本を図書館で借りました。少し分厚い本で、章分けされていないためか、少し読みづらいのが難点です。しかし少し読んで、あっと思いました。この本は、ひめゆり学徒隊での経験を語り部として今回の集会で話してくれた宮城さんを取材して書かれていたのでした。ひめゆり学徒隊での経験はもちろん、ひめゆり平和祈念資料館について、今も残る米軍基地問題など、戦争当時から現在もなお続く、宮城さんやひめゆり同窓会の活動について知ることが出来ました。宮城さんの生の意見を知ることが出来ました。沖縄に行かんでも、本を読んだら勉強できるなぁ、今やったらインターネットもあるしな。

 今回は沖縄戦についての本を読んでみたり、平和行動の内容を昼礼で紹介してみたりと行動することが出来ました。数年前、今回と同じように長崎の平和記念集会に参加した後は、何も行動することなくただ記憶だけが残りました。語り部から当時の体験談を聞いたり、資料館で悲惨な写真を見たり、ガマに入ってみたりといったことで受けたショックが、長崎の原爆被害の悲惨さを見て受けたものより大きかったのもその理由だと思います。

今までは、戦争反対と言うだけなら簡単。それだけじゃ意味がないよ。と思っていました。今回平和行動に参加して、それだけでも十分に意味があるかも知れない、と思うようになりました。戦争反対と声を出さないと平和に向けての行動は始まらないと思いますがどうでしょうか。

・・・戦争をなくすために具体的な方法はすぐには思いつきませんが、そのひとつは教育ではないかと思います。教育のなかで平和を大切にすることを教えて行けば、少しは平和な世界に近づくのではないかと思います。・・・業務の方ですが、現在・・・。

 さて、このわたしのレポートを読んで、沖縄戦のこと、太平洋戦争のこと、イラクの戦争の後はどうなるのか、自衛隊は軍隊じゃないのか、少年犯罪はどうしたら減るのか、平和な世の中をどうやって作っていくのか、そんなことに少しでも興味を持っていただけると、またひとつ仕事が出来たことになります。そして、わたしは良い教育ができるようもう少し勉強したり、考えたりしたいと思います。

難しいけど“伝え続ける平和”が大切

国公総連(全農林)松本純子

 日本では6月6日に有事法制が成立した。私は今回のような平和行動に3日間も参加するというのは初めてで、「自分は何ができるだろう。この今の状況で自分はどう考えるべきだろうか」と全く無知なまま参加したように思う。 参加してまず感じたことは、なぜこれ程の人たちが毎年、広島・長崎・沖縄の平和集会に集まるのだろうかということ。その根本にあるのは平和を願う強い気持ちなのだろうが・・・

 2日目の『ピース・フィールドワーク』では「南部戦跡に学ぶ」ということで、沖縄戦の実相に触れることのできる糸数壕(アブチラガマ)等を訪れた。糸数壕はもともと避難指定壕だったものが、米軍上陸の際には陸軍病院の分室となっていた。懐中電灯を照らしながら実際に中に入っていくと、真っ暗でひんやりしており、かつてこの中で1000人以上の負傷兵で地獄のような有様だったことが信じられなかった。
 しかし、実際に戦跡を歩き感じて見る沖縄は、テレビでは知ることのできない、聞くだけでは分からない平和への思いが伝わり、この3日間でたくさんのことを学ぶことができた。

 平和活動を続けていくということは大切な人を守ることだと思う。今回の行動でも伝えていくことの難しさを改めて感じた。しかしそれは必ず伝えていかなければならない。国土面積のわずか0.6%の土地に米軍専用施設面積の75%が沖縄に集中している現実は未だ変わっていない。いろんな現実を認識しながら、考え、そして伝えていくことが大切だと感じた。

人は教育の仕方でこんなに変わるのか?

情報労連 菊川泰

飛行機で沖縄が見えた時、数十年前に沖縄戦で、鹿児島(知覧)から飛び立った十代の特攻隊を思いだし、お国のため、親兄弟のためにと散っていった。現代では、想像もつかない教育を受け、ひたすらお国のためと強い意志を持っていたに違いない。

 そして、沖縄本土では、前から米兵、後ろから守ってくれるはずの日本兵から追い出され、生き地獄の果てに亡くなって住民・学徒隊(少年・少女)のことを思うと胸が痛む。同じ日本人なのに。将来の夢があったのに。教育の仕方で人はこんなに変わるものなのか?決して忘れてはならないとともに、語り継ぎ、恒久平和を望む。